あの日の朝・・・ここ堺市でも強い揺れを感じました。
とても怖がる子供(今の社長ですが)を今は亡き義理の父がかばってくれていました。
すぐにテレビをつけても何もわからずに、
最寄り駅につながる南海電車が不通になっているとの事
「阪神も阪急も何も言っていないのに、何で南海だけ?
南海電車は揺れに弱いのか駄目よね」って話したのを覚えて居ます。
ただ今とは違って震度も震源も即時にわからない頃、
その頃神戸は飛んでもない事になっているというのに。
家もご近所様も被害が無いのを確認して、
とりあえず会社へ車を走らせた社長からは
(会社は家よりもずっと海側にあります。)
お店先の灯籠が何本も倒れて大変な事になっているとの事でした
私はお昼から堺駅近くのセンターでレッスンがはいっていたので、
なんとか堺東まで運行されている南海電車に乗って、
そこからは徒歩で堺駅まで向かいました。
さすがにその日レッスンに通ってくる生徒は一人もなく
皆さんお休みの連絡が来ました。
私はといえば、センターの階段の窓から遠くに見える神戸方面をみて、
お友達の安全を祈っていました。
そのときの当社の被害は何本かの倒れた灯籠と
摩耶埠頭にあった引き取り前のコンテナ一つのみですみました。
(コンテナにはお墓を含むいくつかの石製品が入っていました。)
ただ、あれから30年、あの日のことは朝から夜まで
何をしていたのかすべて覚えています。
私の人生の中でも、その日その時間に私が何をしていたかを鮮明に覚えている日は
数えるばかり数日です。阪神淡路大震災の日、東日本大震災の日
2018年の台風21号 そして去年の能登半島地震・・・
直接、大きな被害を受けたわけではないですが、
その時に生きた者としての役割は、
次の世代にその時感じた事を自分の言葉で少しでも伝えていくという事だと思っています。